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★★落ちこぼれ問題はどこへ行った?2★★ [企画・思考]

★★落ちこぼれ問題はどこへ行った?2★★
「落ちこぼれ」については、「吹きこぼれ問題」も含めて、苫野一徳氏が「『学校』をつくり直す」(河出新書)第一章で次のように述べている。
「一つの象徴的な例が、嫌な言葉ですが、いわゆる落ちこぼれ・吹きこぼれ問題です。多くの人は、『落ちこぼれ』は、その子の理解力が低いから生まれるものだと思っているのではないかと思います。でも、実は、これはシステムによって構造的に引き起こされている側面が非常に大きいのです。考えてみれば当然のことです。みんなで同じことを、同じペースで勉強して入れば、一度つまずくと、そのまま取り残されるということがどうしても起こってしまうからです。・・・(中略)・・・次章でも論じるように、雑務の増大、子どもたちの変化の多様化、特別な支援を要する子どもたちの増大、保護者の要求の増大、部活動の仕事の増大などに追われて、日本の先生たちは、総体的に見て、かつてのようなきめ細かな『個に応じた支援』ができなくなってしまっているのです。」
 
苫野氏は、「落ちこぼれ問題」について、みんなで同じことを、同じペースで勉強するというシステムによって構造的に引き起こされたという側面が大きい、と述べられている。
また、子供を含めた教師を取り巻く様々な環境が、大きく変化したために、教師が変化に対応しきれなくなり、個に応じた支援ができなくなったのだと言われている。
私はそう読みとった。

半分くらいそれに同意しながらも、私はまだ、それだけではないと感じるところがある。
それは、情報化社会に生きる「教師」の側の問題である。
そこには、様々な問題が含まれている。例えば、
・教師が「何を(使って)、どのように」、教育技術を学ぶか。
・爆発的に増えた教育情報から必要な教育技術をどのように選択するか。
・そもそも手本とすべき教育技術をどのように身につけるか。
というようなことである。
情報が少ない時代は、先輩から情報を得ることが多かったかもしれない。
しかし、ICTがそれを一気に打ち砕いたと見ることはできないだろうか。
情報の洪水の中で、自分の学級づくりの力、授業づくりの力をどう学ぶかが見えにくく
なっているのではないか。私はそう思うのである。
そうは言っても、教師は毎日授業をしなくてはならない。
何らかの授業を日々しているのである。
一体何を頼りに、何を見て授業をつくり、実際にしているのであろうか。
落ちこぼれ問題は、そこに大きく関わっているのだと、私は考えている。
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