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再び、ブッククラブのこと [国語]

再び、ブッククラブのこと

有元先生のウェブページが更新された。
左のリンク集から訪問することができる。
2の方である。
授業ブランの部分がお勧めである。
特に、6年生の「海の命」の部分は、ここに示された通りに授業してみて頂けたらと思う。

話はかわるが、数日前、「ごんぎつね」について初任者と語り合った。
語り合ったというよりは、私がほとんど一方的にしゃべった。
私が問題にしたのは例えば次の部分である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ごんは、ばたりとたおれました。
兵十はかけよって来ました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・上の行は読点があるのに、なぜ下の行はさらに短い文なのに読点がないのか。
・「ばたり」とは文法的にはどういう言葉か。また、どういう意味か。
・この部分をどう音読させるのがよいか。
・語り手はこの場面をどこからみているのか。
授業者は、こういうことに気づかなければならないし、気づく感性を持たなければならない
というようなことを話した。

最終場面で、
「ごんは、どうなりましたか」
と問うと、ほとんどの子が授業後も「死んだ」と答える。

だが、実際は死んだ記述はない。
「青いけむりが、まだつつ口から細く出ていました。」
むしろ逆である。
まだ、青いけむりが出ていたのである。
しかも、細くだ。
「青い」には、未熟、若い、一人前でないという意味がある。辞書に出ている。
「細い」は、勢いが盛んでない。弱々しいという意味だ。これも辞書に出ている。
つまり煙がごんの状態を暗示しているとしても、
弱々しい風前の灯火のような命がまだそこにあるのである。
死んでいないぎりぎりの状態で初めて兵十が気づく。
だから兵十の「ごん」の後には、読点がある。
「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」(以上光村版)

ここまで話して、さらに気になったことがあったので、
調べてみた。
最終場面のこれらの定稿はどうだったのかということだ。
新美南吉記念館記念館にメールしたところ、すぐにお返事をくださった。
次の通りである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんにちは。 お問い合わせの件について、以下の通り、お答えします。

「ごんぎつね」について
再度、底本といいますか
現在さだまっているテキストがありましたら、
つぎの部分についてご教示頂きたく存じます。

・ごんは、ばたりとたおれました。

●この部分に読点はあるのか。

読点はあります。 ごんは、ばたりとたほれました。

・「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」

●この部分の正しい表記は。

「ごん、お前だつたのか。いつも栗をくれたのは。」 ※お前(「まい」とルビ)

 「ごん狐」の定稿といえば、『校定 新美南吉全集』第三巻(大日本図書)の 「ごん狐」になると思います。その底本は、初出誌の『赤い鳥』昭和7年1月号の「ごん狐」です。  もちろん、旧仮名遣いを直すことは問題ありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
やはり、定稿は光村版の教科書とは異なっていた。
一度、国会図書館で赤い鳥を読んだことがあったので、
思い出したのかも知れない。
「ごん、お前だつたのか。いつも栗をくれたのは。」

「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」
では、全くニュアンスが異なるし、教材解釈も変わってくる。

光村版がなぜこうなっているのか、
ご存じの方、教えてください。

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