本年も宜しくお願いします [挨拶]
年頭にあたって
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
いきなりだが、昨年末から気になっている言葉がある。
「マトリックス」という言葉だ。
マトリックスの意味をインターネットで調べてみたところ次のように出ていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用開始ーーーーーーー
マトリックス(あるいはマトリクス)とは、元来「生み出すもの」を意味する言葉である。
本来は「子宮」を意味するラテン語(< Mater母+ix)に由来する英語Matrixの音写で、
そこから何かを生み出すものを意味する。この「生み出す機能」に着目して命名されること
が多い。また、子宮状の形状・状態に着目して命名される場合もある。(Wikipedia)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終了ーーーーーーー
英語でいうところのmater=mother(母)に通じるというわけだ。
マトリックス、母と来れば、私が連想するものは「胎蔵界曼荼羅」である。
「胎蔵」という言い方が、Materと関連しないとみる方が難しいだろう。
ご存じのように、「胎蔵界曼荼羅」は「金剛界曼荼羅」と一対で、真言密教における
大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表したものとされる。二枚の曼荼羅はセットで
両部曼荼羅とか両界曼荼羅と呼ばれるようだ。
さて、二枚の曼荼羅界と聞いてさらに私が連想するのが、宮澤賢治の「やまなし」だ。
私は、やまなしを単なる童話とはみていない。
宮澤賢治が何かにとりつかれたように書くことに没頭していた時の作品である。何だか
わからない魅力が秘められた作品である。
結論から申し上げるなら、やまなしの五月と十二月は二枚の曼荼羅界を表している。
問題はその二枚がなぜ青い幻灯なのかということだ。
どう読んでも、五月も十二月も平面的ではない。一枚、二枚と数えるような場ではない。
むしろ立体的で幻想的な世界だ。
私が考えた幻灯の意味は、オーバーラップできるということである。重ね合わせてイメージ
できる世界だということである。
つまり、五月と十二月は別々のものではなく、一体的に捉えるべきものだということだ。
その鍵となる言葉が最後の「私の」である。
以前、この「の」をどう授業するかが問題になったことがある。
問題になったところで、議論は終わってしまったが、ここは面白いところだ。
「やまなし」の授業をしようとする者は、ここを外せない。私はそう思っている。
マトリックス→曼荼羅→やまなし と進んで来た。
私が暮れから考えているのが、授業における「活動の基本型」である。
これを考えているときにヒントを与えてくれたのが、「やまなし」だ。
一言でいうなら「やまなし」の中には情報を整理するシステムが暗示されている
のである。5年以上かけて読み込んで来たのに、それにまだまだ気づかなかったの
である。
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
いきなりだが、昨年末から気になっている言葉がある。
「マトリックス」という言葉だ。
マトリックスの意味をインターネットで調べてみたところ次のように出ていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用開始ーーーーーーー
マトリックス(あるいはマトリクス)とは、元来「生み出すもの」を意味する言葉である。
本来は「子宮」を意味するラテン語(< Mater母+ix)に由来する英語Matrixの音写で、
そこから何かを生み出すものを意味する。この「生み出す機能」に着目して命名されること
が多い。また、子宮状の形状・状態に着目して命名される場合もある。(Wikipedia)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終了ーーーーーーー
英語でいうところのmater=mother(母)に通じるというわけだ。
マトリックス、母と来れば、私が連想するものは「胎蔵界曼荼羅」である。
「胎蔵」という言い方が、Materと関連しないとみる方が難しいだろう。
ご存じのように、「胎蔵界曼荼羅」は「金剛界曼荼羅」と一対で、真言密教における
大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表したものとされる。二枚の曼荼羅はセットで
両部曼荼羅とか両界曼荼羅と呼ばれるようだ。
さて、二枚の曼荼羅界と聞いてさらに私が連想するのが、宮澤賢治の「やまなし」だ。
私は、やまなしを単なる童話とはみていない。
宮澤賢治が何かにとりつかれたように書くことに没頭していた時の作品である。何だか
わからない魅力が秘められた作品である。
結論から申し上げるなら、やまなしの五月と十二月は二枚の曼荼羅界を表している。
問題はその二枚がなぜ青い幻灯なのかということだ。
どう読んでも、五月も十二月も平面的ではない。一枚、二枚と数えるような場ではない。
むしろ立体的で幻想的な世界だ。
私が考えた幻灯の意味は、オーバーラップできるということである。重ね合わせてイメージ
できる世界だということである。
つまり、五月と十二月は別々のものではなく、一体的に捉えるべきものだということだ。
その鍵となる言葉が最後の「私の」である。
以前、この「の」をどう授業するかが問題になったことがある。
問題になったところで、議論は終わってしまったが、ここは面白いところだ。
「やまなし」の授業をしようとする者は、ここを外せない。私はそう思っている。
マトリックス→曼荼羅→やまなし と進んで来た。
私が暮れから考えているのが、授業における「活動の基本型」である。
これを考えているときにヒントを与えてくれたのが、「やまなし」だ。
一言でいうなら「やまなし」の中には情報を整理するシステムが暗示されている
のである。5年以上かけて読み込んで来たのに、それにまだまだ気づかなかったの
である。
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