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幸福かどうかを討論する際の落とし穴 [企画・思考]

幸福かどうかを討論する際の落とし穴

「ちいちゃんは幸福か不幸か」(ちいちゃんのかげおくり)
「ごんは幸福か不幸か」(ごんぎつね)
・・・
登場人物をめぐって、幸せ不幸せを話し合う、討論するといった授業を
研究授業等でよく見かけるようになった。
言語活動の充実をめざして討論等で議論を深めるのはとてもよいことだと
私は思う。
が、この問いについては、いつも違和感を感じていた。
したがって、授業では私自身この問いを避けてきた。
ブログにリンクを許可してくださっている有元秀文先生が、このことについての
問題点をずばり指摘しておられる。
拝読して、「ああ、そうだったのか」と私の違和感の原因が、クリアになった。
若い先生方には特に、次の、有元先生の記事をお読み頂きたい。
今回は、誤りのないよう全文転載というかたちをとらせて頂く。
許可してくださった有元先生にはこの場を借りて、感謝申し上げます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー全文転載開始ーーーーーー
最後までブッククラブにつきあってくれた江戸川区の小学校の研修会が終わって私は幸福感に
満たされている。
しかし本当に私は幸せなのだろうか?
それとも不幸せなのだろうか?
一つ胸につっかえているから幸せでもあり不幸せでもある

よだかの星のビッグクエスチョンは「よだかは幸せだったのか不幸だったのか?」だった。
定番の問と言って良い。
「ちいちゃんは幸せだったのか?不幸せだったのか?」もよく課題にされる。
なぜか私はこの問が嫌いだ
安易だ
曖昧だ

メールで指導案を送ってくれたとき私はこの問に反対してクリエイティブリーディングが
いいのではないかと返信したが、十分根拠が詰められなかった。
説得力がなかったのかそれとも授業者はメールをみなかったのかもしれない。

まだ30台の教師としては見たことがないほど子どもたちが育っている。
一つの課題で30分近く話し合って子どもが司会して発表する。
発言しない子どもが見あたらない。
帰り際に、「この教師の授業をみんなで見に行ってここまで子どもを育てるのを課題に
してください」と言って校門を後にした。

どうしてこんな発言力が育ったのだろう。
12月から本格的に取り組んだブッククラブが功を奏したのならうれしい。
そうかどうかはみなさんが検証してほしい。
発言させたかったらしっかり書かせることだ。

しかし話し合いの結末は後味が悪い。
「よだかはいじめられていたんだから不幸だ」
「いやよだかは願っていた星になったのだから幸せだ」
「幸せの中に不幸せがあったんじゃないか」

これはディスカッションではない。
なぜこれがディスカッションでないかを証明しよう。

A:私は退職して職がなくなって不幸だ。
B:私は退職して職がなくなったので幸せだ。

AとBの議論は成り立つだろうか?
お互いにカラスの勝手なのである。

「室町時代の百姓と戦国時代の百姓とどちらが幸せか?」
という愚問を出した社会科教師がいた。

何が間違っているか?
語の定義をしないで議論はできないからだ。
アカデミックディベートでは必ず論題の定義をする

そのことに日本人は無神経すぎるのではないか?

学力が低下したかどうか?
を論じる前に「学力」の定義をしない。

ゆとり教育で理科の知識は減ったかもしれないが、プレゼン能力は明らかに高まっている。
両者の学力の定義は違う。

幸せの定義をしてみよう。
A:家族仲良くお金があっておいしいものを食べて社会から尊敬されること
B:自分の意志を通して願いがかなうこと

Aの定義ならよだかは不幸せである。
Bの定義ならよだかは幸せである。

「幸せ」の定義をしないまま「幸せかどうか」を話し合わせるのは永遠にすれちがうのである。

どうしてもやらせたければ定義をしてからやらせてほしい?

定義があいまいなだけでなく、「よだかは幸せだったのか不幸だったのか?」の問は時があいまいである。

「星になった時、よだかは幸せだったか不幸せか」なら幸せと答える子どもが多いと思う。
定義と時をあいまいにして激論をしているように見えてもそれはすれちがっているだけである。
だから双方とも納得せずすれちがいの議論になる。

アメリカのブック・ディスカッションの文献で「幸せかどうか」という問は見たことがない。
「あなたにとって大切なものは何か?それはいつ変わったか?」という問はバリュー(価値観)についてのビッグクエスチョンとしてブッククラブの単元で行われている。

「あなたにとって幸せとは何か?」ならよい。
お金があることか?
自分のやりたいことをやることか?

よだかは虫を食べなければ生きられない。
生きていることが罪だった。
しかもひどいいじめに会い自己否定される。
みんなから嫌われ自尊感情は最低にまで落ちる。
しかし虫を食べないで星になればもう罪は犯さない
いじめにも会わない

賢治は何を言いたかったのだろうか?
もちろんよだかは人になぞらえているのである。

人は生きているだけで罪を犯すのだろうか?
欲望のままに動物を食べ、動物の皮の靴をはき、自然界を壊して人は生きている
放射能をまきちらして人は生きている
欲望にまかせて作った子供が教師を苦しめる
そういう生き方に反発して生きれば世界中を敵に回し世界中からいやがられるのではないか?
では死ななければならないのか?

私は小さい時からいじめられてきた
今も逃げ方がうまくなっただけで完全なアウトサイダーである。
完全な少数派である。
私に反発する人はいっぱいいるだろう
ではよだかのように姿を消さなければならないか?

一人ブッククラブでなぜ私が「よだかの星」に惹かれるかが見えてくる
みなさんも仲間とよだかの星についてブッククラブをしてほしい

よだかは
「いったいぼくは、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。」という
そして「ああ、つらい、つらい。ぼくはもう虫を食べないでうえて死のう」と意志決定する
この意志決定は正しいのか?

よだかはたかにいじめられると言うが、弟のかわせみだっているじゃないか。
はちすずめだっているじゃないか。
お日様だって親切にアドバイスしてくれたじゃないか。

それよりよだかは本当にみにくいのだろうか。
死んで星になるのが唯一の選択肢だったのか?

パーソナルリーディングやクリティカルリーディングをすると、まだまだ興味深いビッグクエスチョンが浮かんでくる。

どんどん「ブッククラブひろば」に新しい教材をのせている。
そのうち「よだか」にもチャレンジしたい。
このブログを読んでいる教師は私の授業プランを参考にしてブッククラブがどんなに面白いか、どんなに子どもの意見を引き出すか検証をしてほしい。
私のプランで子どもたちが変わり教師が授業を楽しむことが私の幸せである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー転載終了ーーーー
「アカデミックディベートでは必ず論題の定義をする」
ここに、問題のすべてが集約されているように私は思った。

学校での議論は、将来の子どもたちの生き方の素地をつくることがある。
登場人物の幸不幸を考えることを自分に置き換えた時、子どもたちがただ
「私って幸せなの、それとも不幸なの」と二つの視点の中で揺れるとした
ら教育の責任は大きいのだと思う。

同様に私が違和感を感じるのが、「楽しい」という感想だ。
テレビで、イベント後、子どもたちに感想を問う場面がよく放送される。
こどもたちの答えが決まって、「楽しかった」なのである。
ずべてをカウントできる術はないが、感覚的に半数はこれだろう。
これも、有元先生の記事を拝読して、すとんと落ちた。
「有元先生、今後ともご指導、宜しくお願いします」


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tanoki

すみません。
初めまして。 半月程前から 拝読させていただいています。
私は 自分のことを tanoki3と 呼んでいて たぬき3の意味なんですけれども、先生のブログを初めて拝見して ビックリしたのです。
ちょっと にていますから。でも 真似していると思われたら・・・と思って
niceは 押せなかったのです。すみません。
by tanoki (2012-02-10 20:01) 

たぬき3

tanokiさん
ありがとうとうございます。
これは奇遇ですね。
そして、これからも宜しくお願いします。
私のハンドルネームは教え子のある子が私のお腹をさすって
「たぬちゃん」と言ったことに由来しています。
以来、ダイエットが私の課題です(笑)。

by たぬき3 (2012-02-10 20:38) 

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